個人の偏った感想です。人種だ女性だ、そういうのにもふれる回です。言葉選びをミスっている箇所もあると思いますが、私は今回の全てのキャストを好意的に見ています。また、私にはなにか人権的な配慮を過激に擁護したり批判したりする意図はなく、今回の舞台において女性やさまざまな人種のキャラクターが当たり前に存在していること、というよりも原作通りをやる、という普遍性を評価しています。そして一部別作品の話もしていますが、今回抱いた考えを強い思想として他のコンテンツや社会問題に持ち込むことはない、ということを前置きさせていただきます。簡単に言うとなんかいろんなひといてたのし〜!けどこれ他でやるのもむずいね〜!って感じです。あと、馴染みのない社会問題についての言及とか思慮って失敗から学ぶしかないので、自分で読み返して「ん?」と思った箇所は都度言い換えたり修正します。
いやーーーーー
よかったなあテニミュ やっぱいいなあテニミュ
そう思えた、新しくもあり個人的には楽しみ方について原点回帰にもなったテニミュらしいテニミュ、いや、お祭りでした。
先にネガティブなことも絡めた話をしたい。
中身よりも外面のはなしです。
国際色豊かなキャスティング、そこにどうしても伴ってしまう不完全な演技、本来の観劇ではあまり起こらない歓声。
それだけでぶっちゃけ、相当チャレンジングなことだと思う。
正直、日本語ネイティブではないこと、それがキャストコメントからも事前に把握できたとはいえ、もしその役者の何割かが日本語のセリフをうまく言えていない場合、その舞台に9500円のチケット代を払う価値はあるだろうか?一般的に想定される「出来」(キャストの客降り対応の体験からくる損得とは別の、舞台作品のクオリティとして)として考えたら、実際はとても厳しいと思う。
出来だけの部分で言えば、確かにもともと未経験・スキルが不完全な役者を起用するところこそに醍醐味のあるコンテンツではあるが、「新テニミュ」シリーズは比較的演技などが安定した日本人キャストが多数を占めているうえ、その中で海外選手のキャラクターは物語上”強者”という説得力を持たなければならない、そういう役割があると思われる。
テニミュくらい地盤の固まってる長寿舞台シリーズならば、海外選手役でも日本人キャストで通すこともできるし、容姿の再現がしやすい日本育ちのハーフタレントをたくさん起用してもいいだろう。
それでもパリコレ経験者!みたいに他ジャンルでの活躍だったり、役者個人の背景まで加味したキャスティングというあたりネルケらしい采配が光っていると感じたが、やはり聞き取りやすさが保証されていないのは劇作品として大きなネックになるはず。(じゃあ日本人で滑舌が悪い人は?という話になるが、先述の通りそういう人でも起用する事こそこのコンテンツたらしめていると思いつつ、やはりネイティブ話者とはニュアンスやイントネーションの自然さだったり、感情ののせやすさで差は出る気がする)
最悪の場合、例えば(よく考えればありえんが)役者にとってのネイティブ言語のセリフで日本語字幕を舞台に投影したほうがクオリティ的には正しいのかもしれないし、実際出身地がキャラと合っている人はそうするのかな?とキャスト発表の時は少しだけ想像していた。実際にはキャストの各々の努力で日本語のセリフを喋ったわけだけど。
字幕投影は席によって見づらそう・現実的でなさそうだし(やっとる舞台やショーもあるだろうけど)、そもそもドイツチームなんかは特に役者それぞれ多国籍でチームの中ですでに言語が混ざっているから、そりゃ日本語で統一した方がいいのであった。
なんか、いろんな要素を加味しても海を渡って日本で活躍することを選んだ俳優たちを後押しするような、踏み台にしてでもいいから、一回全力で、日本の芝居をやったれといった姿勢を感じられた気がする。
なによりテニミュのオタクって(主語デカ失礼)比較的、舞台単体のクオリティーが高いものを観たい、というよりは「テニミュ」を観にきている。先述の通り未経験者のキャストこそ醍醐味で、ずっと新人俳優の青春や成長を追っているのだ。つまり役者のいろんな”初めて”が我々の好きなテニプリというコンテンツ発で、それをキャリアの原点としてくれる喜びだったり、原作に対する汲み取り方や、キャラクターへの愛や情熱、役者自身の人生とキャラクターの人生が重なる瞬間の方が大切で、そこに旨みを感じてハマっている人が多い印象がある。そして、そういう部分を製作側から信頼されたんだろうと思う。そこ(コンテンツへの愛)に国境はないのだから。
ただ、やっぱり20年間オタクと制作の間で築き上げた頑丈な土台がある上で多国籍なキャラクターが存在するIPであるテニプリじゃなければ成立しない企画だったと思う。2.5次元だけでいえば今後ほかの既存IPでこんな無謀なことできるか?というと、わからない。最初から頑張りが評価され、集客が約束されるようなスターではなく、テニミュのようなコンテンツへ出演する役者の実態は無名の状態から積み上げていく過程というパターンがほとんどではなかろうか。(今回は経歴的には豪華な人たちが多いが、2.5次元や若手俳優という確立されたジャンル内での知名度は低い)そもそも訓練された客がまず必要だし、新規参入になるとキツいと思う。
本当に、奇跡的な条件のもとに成立しているとしか言えないし、そんな凄まじいコンテンツをこの目で見れたことを嬉しく思う。
実際、ぐんぐん日本語のセリフが流暢に近づいていくキャストもいたし、流暢なレベルまで習得できなかったキャストでも、歌や芝居に感情を込める余裕が出てきたように思う。
そういう成長自体がコンテンツになっているし、大体…パリコレがあだ名のモデルをやっているフランス人キャラを、本当にパリコレに出たことのあるモデルをやっているフランス人が演じるのであれば、もうそれは運命的であり、セリフの言えた言えてないなんかどうでもよくなってしまう説得力しかない。
もう一点、女性キャストは出ないが、女性キャラを兼役が面白女装ではなく本当に女性として演じたこともよかった。(出番数的にも独自キャスティングするのは不合理なので、あらかじめ理解したい)
昨今の2.5次元舞台では女性役を男性の俳優が行うことは結構あるが、テニミュはどうしても漫画原作舞台が2.5次元と呼ばれる前の黎明期からあり、原作でも女性キャラクターの出番が少ない(男子競技のトーナメント戦を描いている以上は必然である)せいで、元から出番の少ない俳優が日替わりネタ要素の強い兼役でちょっとチープな女装をして笑いを誘う…といった演出も目立った。
それはそれで、構成的には笑いどころを作ってまとまるし、キャラを蔑ろにしているか?というと、キャラとしてカウントされていないメタ的な笑いとして存在しているように思うので、なんともいえなさがある。(個人的には少なからず特定の性別への蔑視の意図ではないことはわかるため、その視点での批判感情はない)
ただ、今回の「竜崎桜乃」は原作からしても完全なる「キーパーソン」であり、出さない選択肢もなければネタにもできない。よって、真っ向から女性らしいしぐさができ、中性的なルックスを持つキャストがそのまま演じ、当たり前のようにヒロインが舞台に存在する状況を作ったことはとても正しいことだろう。
まあ桜乃に限らずだけど多様性だとか、差別意識だとか、フェミニズムだ、とかそういう人権的配慮じゃなく、原作再現にあたって必然的に手元にあるカードで最適解を出した、と思う。というか、私は配慮云々ではなくこれは「当たり前に必要だからそうしている」であってほしいと願っているし、そうあるべきと考えている。「配慮」でそうしているのだったら、「本来取り除いても本質には支障のない要素」というニュアンスで受け取れてしまうから。どうかんがえても必要だろ!!!!!!でも出番は少ないから兼役なのもそれはそう!!!!!!!もっと出番多かったらどうだったんだろう。本当に紅一点導入したのかな。いや、前例があるので、それでも男性がやったと思いますが。
いや〜しかしかわいかったな、もちシール…
ここ、リョーマと桜乃の関係を深掘りせず、そして否定もせず、馬どうしのやり取りで恋愛を描きながらも、少しはリョーマからの矢印もちらつかせつつ…で地味に巧妙だった。まあ、桜乃の扱いというのはとても繊細な問題で、もう「存在が無理」の層もいるし…そういうひとまで納得させることは無理だとして(原作の時点で重要展開なのを理解しつつも存在を認めたくないというつらい自己矛盾を孕んでいるし、女性の気配がぜんぜんないテニミュって多分そういう層にとっての最後の希望だったかもしれないし、それが覆されたから…)、でも、ちょい苦手〜!くらいの人には程よい調整だったのではなかろうか。
(追記:なおサーステがおわりたてほやほやの2023年11月現在、4thでついにミユキちゃんという女児キャストが投入されることが発表され、大混乱である)
さいごに。大千秋楽のキャスト挨拶でも明るみになったが、やっぱり海外選手役の海外ネイティブキャストと日本人キャストの間ではカルチャーショックがあるというか、演技指導以前に仕事の取り組み方や心構え、姿勢までカバーする必要があった模様。
そんな中で助け、教え、高め合うというのは、今までのテニミュにあった完全新人の若いキャストを抱えながら少しずつグラデーションで代が重なっている先輩共演キャストが色々教えていく図にちょっと似ている。違うのは、その海外ネイティブの素人キャストの経歴が異色がちなゆえ、違う経験や視点を共有できたことなんだろう。
そもそも「日本でやっていきたい」なら、郷に行って郷に従う…ほど徹底する必要はなくとも、当然自国の常識からは一度抜け出す必要があると思う。少なからず日本の文化とマナー、働き方を学ぶ必要がある。皆が当たり前にできていることに対しての凹凸を埋めてスタートラインに立たなくちゃ話にならない。もちろん全部を均す必要はないと思うし、非効率であると考えるならしくみから変える提言をする自由だってある。(逆も然りね)
でも、きついスケジュールの中で完成させなければいけない大人数のプロジェクトで頻繁に遅刻され、練習さえまともにできなかったら、それが国民性からくる母国の常識だったとしても、カンパニーは成立しないわけだ。
それをある程度いい年齢になってからのスタートでもちゃんと叱ってくれる場があるというのは、恵まれてるんじゃあないかな…
えっと、鮎川太陽さん、ほんとうに、ありがとうございます(功労者すぎる)
でも、ちょっとモヤってしまったんだけど…挨拶にせよ後日するインライにせよ悪意ないのは分かってるんだけど…「外人」「外国人」はあんま連呼しない方がいいかも!壁を感じてしまった、そんなことはないのに。あと当人が気にしてないなら別にいいんだが…おそらく映像記録に残って時を超えて不特定多数にみられるものなので…肝が冷えるというか…なので当ブログも非ネイティブとかなるべく事実かつ丸そうな言葉で書き換えている。こんなの気にすんの正直6割以上日本人同士な気もするけど。(割合を日和るな)
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まとめよう。先述した通り、似たような舞台企画は多分作れないと思う。でも、ひとつのコンテンツを、これくらいの規模感で国境や人種を越えて育てる環境は、もっとあってもいいな〜と思う。なんか、その国の人の考えや常識にぐっと近づけた気がするから。
そのようなことをやんわ〜り考えていました。
あ、そうだ、桜乃ちゃんのこともそうだけど、たとえばドゥドゥとか。ルックスや体格はもちろん、演技もよかったけど、ダンスやグルーヴ感といった要素がすごいハマり役だった。
ハーフタレントというか、単純に黒人のルーツを持っているダンサー出の方だけど、別に批判の的になりやすいポリコレ配慮じゃなくただ単純に黒人男性のキャラクターに対して肌の色も込みで納得のスキルを持った役者を雇ったにすぎない、と思う。言葉の選び方がわからないので語弊があるかもしれないけど、原作再現に俳優自身のエッセンスが加わることが何よりも強い2.5次元コンテンツにおいては、行きすぎた配慮よりもそういう必然的要素の観点でいいと、個人的には思っている。(ただし今回一部の歌詞が物議を醸したように、原作にあったとしても引用を避けた方がいい表現についての調査・校正は必要と考える)
まあ、2.5舞台にも多種多様な肌の色の人を出したい!出すべき!なら、まず多種多様な肌の色の人が出てくるグローバルな原作作品が前提としてあってほしいし、それも自然に生まれてくれることが理想だよね〜。と、思い至った。当然、この世のすべての創作物がグローバルであってほしいとは到底思わないが。(無理があるし、そんなのは多様性ではないから)
話は大きく逸れるけど、主人公のビジュアルや人種設定が浸透している既存の物語が「原案にした派生タイトル」ではなく「その物語の本物」という顔をして人種ごと変えられてたりするの、文化盗用だとかそっちの側面をひっぱりだされたり、話がややこしくなってるよな〜っていつも首を傾げてしまう。コレの問題点って、例えば黒人が演じているバージョンです、じゃなく最初から黒人の存在です!という認識の上書きを強要してるように感じたり、知らんもんに好きなものが乗っ取られる不快感とかが軸であって、差別感情というより裏切られたという怒りじゃないかなって思ってる。(すでにアニメの印象が浸透しすぎていた映画の実写リトルマーメイドとか、主人公がアリエルという名前じゃなかったらあんなに燃えなかったのではないだろうかとかちょっと思っちゃう)まあ、ともあれあの炎上に関して思ったのは大切なビジュアル要素を特にしっかり再現してほしいだろうファンを蔑ろにすることが差別意識の解消や幸せにつながると思えないし。だからこそ最初から当たり前に多国籍な作品があればいいのにな〜と思ってしまう。(あるけど、それをいまだ忖度だポリコレだで揶揄されてしまう状況を作ったのはこういったヘッタクソな配慮のせいであって、不健康だなって)(さらに言うとこれが黒人がメインの劇団による演劇の興行だとしたら黒人がアリエルやるのは当たり前だよなみたいな…日本でもそうじゃんサーステも実際日本人が海外選手やってるわけで…この壁ってなんだろうなあ、やっぱ劇団という決まった集団に対する配役という「そういうもの」という意識もあるし普通に広告宣伝公開範囲の違いかなあという安直すぎることを思うなど、した)
まあ、でもやっぱり、とくに日本の作家だと、そういう”グローバルな作品”を作るって、作家側に経験や想いがないとむずかしい。私も海外旅行経験ないし日本語以外は喋れないし、職場に外国籍の人はいないから、何か漫画描くってなったら日本人しかいない日本人の物語しかちゃんと描けないなって思う。島国特有のジレンマかもしれん。
許斐先生は旧作からもジャッカル桑原やリチャード坂田、名古屋聖徳の留学生みたいに多様性を出していたし(個性づけの目的だったとしても意味のあることだと思うし、先生の中でも「まあいるでしょ」のリアリティで入れてる感じもする。思ったけど学生モノは留学とか親の都合で越してきて…みたいな理由づけがしやすいし、スポーツのトーナメント系は世界編をやりやすいし、いいフォーマットなんだなあ)(あと普通に主人公のリョーマがそもそも帰国子女!)
新テニにあたっては「世界大会」を描いていくんだ、国の代表だとか想いだとかも無視しないで、国境を越えたスポーツの魅力も両方描くんだ、という思想がおそらくちゃんとあり、実際いろんな肌の色の人を掘りの深さだったり唇の厚さだったり、特徴込みで描いていたりもするので、なんかもうすげえってなった。人種っていうかベースになってる遺伝子の形が違うのって当たり前な事実なんだから揶揄ではなくリスペクトのあるリアリティだと解釈します。
結論、許斐先生がすげー漫画描いちゃったから、裏側や仕組みからしても唯一無二の楽しい舞台がうまれて、マジ最高だし、関係ないところでふだんあまり目を向けない人種問題とかちょっと社会的なことも考える機会になり、よかった。
日本語ネイティブ話者ではないキャストたちも、とても愛を持って挑戦していることがひしひし伝わってきて、それはちゃんとキャラクターとして生きている証になっていた。冒頭で「出来」だけでいうと厳しい、と書いたけど、「テニミュ」としてはもう、満点以上。
私はテニミュのオタクなので、当然これが見たかったんだよこれが!です。
世の中にはいろんな悲しい事が起こっていて国の隔たりや人種の違いで争いは止まないわけですが、いや〜、よく考えたら個人レベルでなら誰とでも手は繋げるよ?と思いました。
おれは、千秋楽でエドガーさんとハイタッチしたことを忘れないぜ。
フランスもっかい出てきて欲しい。良いでしょうか?
ワールドカップ版レボライ欲しい。良いでしょうか?
次回はちゃんと中身の感想を書きたい。良いでしょうか?
おわり