聞き流してもらっていい。ネタがないだけなので。なので装飾もあんまつけません。とにかく今は記事を増やしたくて、日記とかおもしろおかしくつけたいところなんだけども、どうも週5社会人をやっているとおもしろいことなんかひとつもない。土日なんて、ゲームやって布団に沈みながら、5日サボった家事をまとめてやらなきゃいけないし。
そんで、超真面目な話しか出ないので、そうします。
新型コロナウイルス、ありますね?別にウイルスがこの世から消滅されたわけではなく、人類の対抗手段が増えたりしたとか波が落ち付いただけとか、そういうことになるけど、ようやく5類に引き下げられ、日常が戻りつつある。
3年という年月が早いのか遅いのかはわからないけど、数年かかるだろうとは思っていたので「妥当だな〜」くらいの感想。
私はコロナ禍でリモート環境になってから、勤めていた音楽事務所をやめた。
積もり積もった問題が色々あってそのタイミングになっただけとはいえ、次を決めずにニート生活を始める中で、普通に気持ちの問題で就活のやる気がなくても「今ってみんな厳しいからね」と平等に働いてない人間への「しょうがないね」の雰囲気があったのは、決していい事ではないだろうけど救いでもあった。
なんやかんやニート期間は長引かず、大変な時期にも関わらず就活はクリアしてしまった。
私が今働いているのは印刷関係の会社で、企業や行政のなんてことのない書類を刷ったり、普通に飲食店のチラシやポスターをデザインしたり、名刺とか作ったり、なんでも屋に近いDTPデザイナーって感じの職業だ。
まだまだひよっこではあるが働いて2年ほど経つ。
前置き:今回のことは決して行政のコロナ対策やマスク着用の是非、ワクチンの陰謀論とは関係ない。私の思想に関係なく、私の日常の中で、印刷業という場所に身を置いてこの目で見て感じたことのまとめにすぎない。自分の主張のためにこの記事を利用しないでほしい。今回の悲しみの根っこはすべて「コロナ自体がなければな…」です。いいですか?誰も悪人にしてない。私の考えを決めつけないでくれ。いいですね?
なんであれ私にできることは今後も健康管理に気を配り(風邪とか引かないに越したことないので)、TPOに合わせた行動を選び、今回のことも踏まえて消去法であっても自分の信条を軸に理由を持って選んだ政治家に選挙で投票するくらいだろう。大義名分よりも自分がどういう世の中になってほしいかで行動したい人間なので戦闘態勢に入らないよう頼む。
話を戻すと、仕事柄学校の卒業アルバムや文集や記念誌などを作ることがある。
編集していると嫌でも目に入るのは子供たちの声。この3年間の学校生活のイベントが消えてしまった今、「文化祭も中止になったし修学旅行も行けなかったけどそれでも楽しかった」と書く生徒のそれが本音なのか、空気を読んだだけの文なのか私には知る由もない。
私たちが普通に味わったイベントの数々が消えた事実はある。私たち大人にとっての3年は選択肢次第だが人生が”地続き”した3年で”乗り越えたな”という感覚さえある。でも学校生活の3年はたくさんの条件が重なって出来上がる、もっと狭く深く限られたもので、 その貴重さを知った身からすれば”失われたな”と思う。
レジャーに出かければ胸いっぱいに空気を吸い込んで、大声をだして駆け回ったりする。
テーマパークのキャラクターとめいっぱいハグをしてふれあって夢のような体験をする。
ヒーローショーのコールアンドレスポンスで大好きなヒーローの名前を叫んで応援する。
給食の時間、食べてる途中に嫌いなおかずを友達にあげたり、昨日見たテレビの話をゲラゲラ笑ってする。
文化祭や体育祭で多様な交流を持ったり、クラスで一体となる青春を味わう。
修学旅行の夜の恋バナ、好きな人といつもよりしゃべるチャンスがあってドキドキする。
こういったありふれた幼少期や学生生活にあったはずの経験を逃した、あるいは制限されたのがこの3年間の子供たちだと、実感する。
時期によっては入学から卒業までの3年間ぜんぶ制限の中で過ごした子さえいるんだろう。
めちゃくちゃ同情するわけでも無い。”貴重な機会を奪われたんだ”と感じるのは何年も前に何の苦労もなくそのイベントを享受し終わった大人の一方的な同情なので、それはなんか、失礼だなとも思う。
当事者それぞれ思うところはきっとある。むしろそういうイベントが苦手だったりいじめの機会になってしまって、平等に無になった環境だからこそ助かったと思う子もいたかもしれないし、別の形でちゃんと青春を楽しんだ子もいたかもしれない。各々がどうすることもできなかった3年間、各々の楽しみや喜びを見つけて過ごしてきたのは私たち大人と何も変わらないと思う。
文化祭のない学校、修学旅行のない学校生活はかわいそうだね、などと私たちが決めつけてはいけない。しかし一般的に根付いているキラキライベントが失われた事実は、やっぱり胸が痛い。多感な10代のうちのそういう経験はどういうものであれ、その後の人生でいつまでも擦れるような、後々噛み締めるうまみがあるから。
何より、素直に残念がる生徒の声が、いっぱしの印刷会社のヒラ社員の目にとまるのは、それはそれで、「すまん、大人が不甲斐ないばかりに…」という気持ちにもなる。この場合具体的になにが「すまん」なのかはよくわかってない。中止にする判断は誤っているとも思わない。それでも何もできないのはまあ、不甲斐ないとしか言えない。
こんな感じで、まあまあ卒アルやら文集やらの仕事が憂鬱だった。
最近のガキさあ〜!すっごい書くこと現実的なんだよ!?将来の夢とか。「食うのに困らない程度の稼ぎ」とかそういうラインのリアリティで書いてる子がちょくちょく観測できた。あくまでごく一例だけどさ。
ませてる子とか、面白いと思って「やってる」タイプの子が1人2人とかのレベルでは無く、みんなどこか将来に期待してもまあ無理っしょ(笑)みたいな悟りがあるような雰囲気は否めない。ゆとり世代にかすっている私でさえその諦観はあったが、さとり世代ってほんとなんだ…と思った。
まあこれは私の観測範囲でしかないので、すべてのガキがそうというわけではないことは承知の上で頼む。
いろんな規制が解除されたばかりの日、駅に向かってぞろぞろと小学生たちが隊列を組んで遠足だか課外学習だかに向かっていた。
例年なら「うるせ〜〜〜!」くらいに思ってただろう(※私は子供好き属性ではないのでこの位のことは普通に思う)景色が「まあ、自分がガキの時も課外授業ラッキーって思ってたしな…」になった。単なる加齢で丸くなっただけの可能性もあるけど、3年間よう耐えましたわ…の慈しみと、必要な授業の形が戻っていってるっぽい安堵は多少あったと思う。
次からは、ガキたちの行事の思い出が綴られた、去年よりはしゃいでるであろう文集が入稿されることを祈る。大人が勝手に押し付けるキラキラ学校生活の上澄みの記憶と理想が混ざってるような語弊はあるが、書かされる方も楽しいネタがない状況はイヤじゃん?くらいの感覚で言ってる。
そういうのと関係ないです!と前置きはしたものの…これ結局、もやもやした部分考えるとじゃあやっぱ政治が悪い!終了!みたいな感じになっていきそうじゃない?というのはある。でも概念的なふわっとした不便や悲しみや怒りは、突き詰めすぎて結局社会問題と照らし合わせてしまうことになり、そのうち話が大きくなり、自分で御せない範囲に矛先が向く。御せない範囲に敵が定まってしまうと、思考停止になりそうだとも思っている。
団結しやすいインターネットで政治というふわっとした「巨悪」に怒る快感を得て、本当に不満に思っていたことの多面的な本質を見失い、よくよく目的と手段が逆になってしまうというのが、小さい頃からネットでいろんな怒りを見て来た私の所感。※立場上声をあげる必要があったり、強い意志でやっている人ではなく、思い込みでキレて過激な暴言吐いたり芸能人にアンチ粘着したり反面自分のアカウントはエロ垢へのいいねやリプライと懸賞RTまみれみたいな終わってるタイプの人を指しています。はっきり言うとこういう人をだいぶ蔑んでいます。
実際に一因だろうが、本来はより複雑でキリがないはず。それこそ政治家さん頑張ってくれマジで。
当然私にも「この党/議員/政策イヤ」の思想は存在するし、今がベストとも思えないし、すべてにおいて消去法とすら思ってるけど、おそらく政治において消去法の考え方って間違いではないだろうし、最良は存在せずとも最善を期待して選ぶのが私にとっての政治への心構え。デモとかそれどころではなく私の生活で精一杯で、むさ苦しい議論も嫌いだけどそれはそれとして機会があるならやっとくか、というのが私にとっての選挙。
ある視点では無責任なのかもしれないが、大義ではなく身の回りのことしか見えない中でストレスなく関わろうとして(関わらない選択肢はないと思ってる)このスタンス。多分、よほどの特大ダメージない限りはずっとこの距離感なのだろう。
もう政治の話しないです。
おわり